相手のことを主観的に判断してしまう罠

我々は何かを判断するとき、客観的な事実を集めようとします。

そこまではいいのです。ただ、それを判断するときにどうしても主観が入ってしまいます。

私はいま自分が書いた『リーダーの暗示学』から、その事例を紹介しようと思いました。あとで、紹介しますが、そのときふと思いました。

私がこれまで取り上げたケースというのがほとんどそうだったのではないかと。

『リーダーの人間行動学』で取り上げた、探検家スコット、乃木希典、ジョルジュ・サンド、空海――彼らの行動はのちの評論家や研究者から間違って理解されている。これについては本をお読みください。

もう、メチャクチャな理解です。

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なぜ、そうなるかというと、評論家自身の価値観でもって、相手の行動を理解しようとしているから。それで間違えてしまう。

空海などは、宗教家や宗教研究家が分析しますから、どうしても宗教という枠で空海の行動を分析する。

全然違うと思います。もっと、人間くさいところに空海の行動理由があったと私は思います。

さて、『リーダーの暗示学』から引用します。このとき、私は実に奇妙だと思ったものです。

イラク戦争の前哨戦である、1990年夏のイラクによるクウェート侵攻のときである。

テレビのコメンテータたちが、戦争が起きるかどうか、持説を論じ合っていた。

戦争が起きると論じる者は、「力の激突は避けられない」と、主張していた。

一方、戦争にはならないとする者は、「世論調査によれば、アメリカは国民の半分以上が戦争に反対している。ブッシュ大統領(先代)が戦争をするはずがない」と主張していた。

話を聞いているうちに、私はおもしろいことに気がついた。

開戦を予想する者は、口角泡を飛ばす、いかにも熱血漢風であった。(捻れ型ということです)

これに対して、避戦予想者は、いかにも学者風の物腰柔らかい人物であった。(上下型のことです)

彼等の持説と態度はとてもよく一致しているように見えた。

もし読者だったら、戦争が起きるか否か、どうやって判断するだろう。

私だったら、こう考える。

と、まあこんな調子で書いておりますが、この先は言わずもがなですよね。

要するにブッシュとフセインの行動基準(感受性)を念頭に推理をしないといけないわけです。誰も評論家さんの感受性を聞いているわけではないんですから。

つまり、「相手の立場に立って、相手の行動基準(感受性)で推理」しないといけないんです。

「相手の立場に立って、自分の行動基準で推理」してもなんにもなりません。でも、みんなこれでひっかかっているんだなあ。