コミュニケーションとは相手の行動パターンを知ること(1)

1種の体型

上下型は腰椎1番に重心がかかりやすいタイプである。腰椎1番は運動機能としては上方運動(伸びる運動)を支配し、臓器関係では神経を支配している。そこで、上下型にはこれらの影響が濃く見られるようになる。

上下型1種を理解するにあたっては、エネルギーが頭脳に集中するタイプであるというところから入るのがよいだろう。大脳昇華型である。

1種の体つきはというと、顔はがっしりとしているが上下に伸びていて面長である。顔もそうだが体全体も細長い感じである。背が高くほっそりして見えるが意外と骨太だ。

それから、1種の場合、首に特徴がある。首が長くて太い。特に緊張したとき、後頭部から胸椎5番までの背中が一直線になる。上胸部から首がまっすぐに伸びているように見える。

首と連動しているのだが、足首も非常に太い。

西洋人、特にドイツ人の男性やフランス人の女性には多いとされる。日本人の場合は、純粋の1種は少ない。男には少しいるが、女性は非常に少ない。

代表的人物には志賀直哉、内田百閒《ひゃっけん》などがいる。

1種が文化人として特に活躍したのは明治の時代である。

1種の運動能力は他のタイプに比べてかなり見劣りする。活躍するスポーツ選手はまずいない。せいぜいマラソンくらいである。運動能力は基本的に乏しい。

1種は頭脳優位の人間なのだが、年をとるとさらに理路整然としてくる。もともと運動能力が劣っているわけだが、年をとって運動能力がさらに落ちると、ますます頭脳が勝ってくる。

1種の場合、年をとって耳が遠くなることはそれほど問題はないが、舌がもつれるとたいへんだ。彼らにとって言語機能はとても大事なのである。1種を元気にさせるには、とにかくしゃべらせることである。

1種の感受性

1種の感受性の特徴は、毀誉褒貶《きよほうへん》である。つまり、名誉に非常に敏感なのだ。彼らは世間の評判が気になってしかたない。

1種の料理人は、材料はどこそこの名産、塩は伯方、炭は備長炭、盛り皿は誰々の名品を使っているといった具合に、一流のものを示したがる。これも評判に弱いからなのだろう。自分の腕のことは忘れている。

おもしろいことに、毀誉褒貶に敏感なくせに、彼らは往々にしてそれを隠そうとする。本当は毀誉褒貶にうるさいくせに、それを気づかれまいと振るまう。

そこで、彼らに名誉や何かの賞を与えるときには、大義名分を提示する必要が生じてくる。何かするとき大義名分にうるさいのも、上下型の特性なのである。

同じようなことだが、上下型は目立つことが嫌いで、役職に就くことをいやがる。平等主義で役につきたがらない。また、質素なものに対するあこがれがあるように見える。

1種も2種もそうだが、彼らが政治家になると選挙活動を極端に嫌う。いくら世襲だといっても、こういう人が政治家になるのは本人にも有権者にも悲劇なのではないか。

抽象化癖

1種はだいたい頭脳優秀で、学者に多くみられる。頭脳特性としては、抽象化にすぐれている。

抽象化というのはこういうことである。

自分が幸せ→家族が幸せ→住んでいる地域住民が幸せ→国が幸せ→宇宙が幸せ

抽象化とは普遍性を求めることといえる。物事をどんどん抽象化していき、階層構造化し、上に、上にと向かっていくのである。

1種を上位概念に向かわせると、どんどん元気になる。抽象化癖を活用させると元気が出るのだ。

抽象化癖といえば、インド人(といっても、インドは多民族国家であるから、ある一部の民族なのであろうが)には、その傾向がたいへん強いようだ。

仏教史を振り返ると、釈迦の概念がどんどん抽象化されているのがわかる。

はじめは釈迦の説く教えが崇拝されたわけだが、そのうち生身の釈迦ではなく、抽象化された理念としての釈迦がうみだされた。さらに時代が進むと、釈迦でない毘盧遮那《びるしゃな》という超人的な仏《ぶつ》が宇宙の根底にいるとされ、毘盧遮那のひとつの表れとして釈迦があるとされるようになった。このあたりは、インド人の抽象化好き性癖がよく表れている。

ゼロが発見されたのはインドだが、数学的才能が抽象化癖と無関係ではないような気がする。また、インドがソフトウェア人材の世界的供給地となっているのも、それらと関係があるように思われる。

それから、私には将棋の才能が数学的な素養と関係するような気がしている。というのも、将棋界には上下型が多く見られるからである。米長、中原、谷川、羽生らの棋士は上下型の要素が強い。ところが、囲碁の棋士には将棋の棋士よりも上下型が少ないように思われる。不思議である。

■1種の普遍性を求める思考癖

1種の抽象化癖は「観念化」ともいえる。抽象化の根本は、観念を確定させることだからである。

このあたりを少し説明しよう。

「実体」に対しては、「属性」と「観念」とが常に存在する。たとえば「りんごの実体」を例にとって考えてみよう。

この場合、りんごの属性は「赤い」「甘酸っぱい」「手にすっぽりおさまる大きさ」「かじれるほどの固さ」などである。

一方、りんごの観念とは「りんご」という抽象化されたシンボルイメージのことである。

1種の場合は、観念ばかりが頭に浮かび、属性はほとんど浮かばないという特徴がある。これに対して、3種は属性ばかりが浮かぶ。

1種の場合、できるだけ観念で表現することを好む。だから「きみの言いたいことをひと言で言えば○○だ」と「ラベル」を貼りたがる。1種はそうすると落ち着くのである。

■現実の問題に弱い1種

観念とは抽象化されたイメージであるから、現実からどんどん遠くなる。そのため、1種は現実問題にきわめて弱い。

1種は現実が近づいてくると、何もできなくなる。電話だとものすごく怒れるが、面と向かったら全然怒れなくなる。そこで、1種は常に現実から距離を置こうとする。

また、1種は常に予測しようとする。事態が現実に起きると自分では対応できないことを知っているから、無意識に予期しておこうと思うのである。

計画も同じことである。予期せぬ出来事が起きると動転するから、前もって計画しようという気になるのだ。

しかし、計画してしまえばそれで終わりなのが1種である。計画ができると、もう気が抜けてしまう。だから1種は言論人にしかなれず、行動家にはなれない。

1種の営業課長は部下に日々の行動計画を必ず書かせる。だが、計画表を出せばもうそれだけでよしとなる。

また、計画するのは得意だが、それだけでよくなってしまうので実行しない。家族旅行を計画すると、それで満足してしまい、旅行の日を忘れてしまう。家族から怒られるのは当然だ。

こういう人は、基本的に現実はどうでもよいのだろう。先を見通すことにはたいへんすぐれているが、現実については無関心である。それで、人が困ったりしても非常に冷淡に見える。いざというときには、あまり頼りにならない。

1種はあきらめが早い。野球の監督で相手が7回にエースを出してきたら、もうダメだとあっさり見極めをつけ、あきらめてしまう。全力を尽くさないのだ。このあたり、どこかの総理大臣だった人とそっくりである。